百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

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心からの言葉、届く言葉

詩集 ことばのきせき/若松英輔 亜紀書房

 

街場の文体論/内田樹 ミシマ社

 

詩集を読むことに対しては昔から、割と強い苦手意識があった。それはきっと、その詩が伝えようとしていることを、なんとしても読み取らなければならないという強迫観念があったからだと、今になって思う。伝えようとしているものがどこか深いところにあって、それを感じ取ることができなければ詩を読んだことにならない。その言葉を選んだ理由を自分なりに推測して、言えるようでなければならない。そうやって自分を抑え込んでいた。今はそんなことはない。深い意味を探そうともがくこともせず、自由に読んでいる。そうなったのは、若松英輔さんの、静かに心臓に語りかけるような詩を読んで、心が落ち着く経験をしたからだ。

 

「詩集 ことばのきせき」に収録されている詩を読みながらいつも考えるのは、心の内にある事柄と、書くことによって文字に現れる言葉の前後関係についてだ。今までは、自分がすでに内に秘めている言葉になりうることを文字にする行為を、「書く」と呼ぶのだと思っていた。考えていることを書く、というように。しかし、「詩集 ことばのきせき」を読むと、書くという行為を通して自分の内に何を秘めているのかを(事後的に)知る、という順序なのだと気づかされる。それは、著者本人が直接的に言っていることでもあるけれど、それ以上に、彼もこの詩を書いた後になって「ああ、自分はこんなことを思っていたんだ」と気づいてびっくりしているんじゃないかと、詩を読みながら感じたからだ。

 

内田樹「街場の文体論」は、著者の大学での講義録。そこでは「想いを的確に伝えるためにはどのように書くのが良いか」が示されている。言い換えれば「届く言葉」とは何か、ということ。それを著者は、誠意を尽くして、なんとしても相手に伝わってほしいと強く願いながら発した言葉こそが伝わる、と言っている。これを言う人が他にもたくさんいるなら、その他人に言わせればよい。しかし、自分が言わなければ他の誰も言わないことがあって、それを何としても知ってほしいという時、わかりやすい言葉を選び、身振り手振りを加えながら、何としても伝えたいと腐心する。その「情理をつくして語る」という姿勢が、書くときに必要なのだ。

 

「書く」とは、自分の中に眠っている、いままで気づかなかった想いさえ呼び起こす行為であった。しかしまた、ただ書いただけでは想いを形にすることはできない。自分が考えていることをなんとしても知ってほしいのだ、という熱意があって初めて、それは伝わる言葉になる。自らの内にあるぼんやりとした想い。言葉として書かれた文字。そして、相手に伝わり解釈された言葉。「言葉」には、それが生成された環境によって、三つの層をなしているのだということを知った。