百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

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塑する思考

塑する思考/佐藤卓 新潮社


「塑」という言葉の意味を、高校の化学の授業で初めて知った。樹脂にはその性質に応じて「熱硬化性樹脂」と「熱可塑性樹脂」の二つに分類される、というものだ。硬化はすぐわかるけれど、可塑って何?そこで、変形した状態を維持しようとする性質と知る。粘土が一番分かりやすいだろう。粘土で形づくっ像のことを「塑像」と呼ぶ。

 

この言葉と意味をきちんと覚えるまでに長い年月を要した。可塑性、という言葉が発する「塑が可能である」という能動的なニュアンスからは、「変形しても元に戻ろうとする力」を想像してしまう。変形したままということは、元に戻ろうとする力が働かないこと、つまり力の欠如を意味するのではないか、と。しかし、元の形に戻ろうとするのは塑性ではなく「弾性」。久しく「弾性」に邪魔されて「塑性」の意味が分からず混乱していた。

 

それを人間の思考、生き方になぞらえた「塑する思考」というエッセイに触れて、塑性という言葉が、頭の中のジグソーパズルにピースがはまるように定着した。柔よく剛を制する、とよく言うが、その柔ははたして塑性か弾性か。著者が言うように、社会的にはきっと弾性をイメージしてきたのであろう。外圧をもろともしない硬さは、いつか疲労を起こして壊れるけれど、それよりも柔らかいサッカーボールなら、ぼよんぼよんと跳ね返し続けることができる、というように。しかし本当の意味での柔は、むしろ「外圧によって姿形を柔軟に変えて、変形した状態を維持し続けること」にあると思う。元の形、すなわち戻るべき自分の「顔」が一見ないように感じるけれど、そうではない。変形することを選ぶのも自分の判断。何をしたって自分は自分なのだから、環境に流されることを気にする必要はない。そう考えると、毎日自身の決断の繰り返しによって成り立つ自営業へのエールのようにも聞こえる。

 

「自分はこう思う」「自分はこういうときこういう行動をする人間だ」そうやって自分を縛り付けて、つまり自分のアイデンティティはこれだ、ぶれない軸はここにある、と決めてしまうと、確かに楽だし、筋の通った行動のように見えるかもしれない。ただ、そのアイデンティティがないこと、ぶれない軸を持たないことが、すなわち「自分がない」ということになるのだろうか。今私はそうは思わない。さまざまな境遇を受け入れて、それぞれに適したふるまいができるように縦横無尽に自分を変える。元に戻ろうと躍起になるんじゃなくて、変わった状態も自分だと言う。それが本当の柔だと、強く思った。

 

塑性的であるとは、社会の流れにただ身を委ねることでも、無闇に付和雷同することでも、ましてや世の中に媚びて流行を追うことでもなく、置かれた状況を極力客観的に受け止め、適切に対応できる状態に自分をしておくことなのです。生命科学になぞらえれば、あらゆる臓器に変化する可能性を持つiPS細胞のような状態に。そこには意見がないどころか、今ここでなるべき形になるのだという強い意志がしっかりとある。世の中に流されない冷静な判断の下、自分が今なるべきものになる。やりたいことを、ではなく、やるべきことをやる、の姿勢です。塑性的であれば、やるべきことが、まさにやりたいことになる、と言い換えてもいい。