百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

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後からわかるもの

老いのレッスン/内田樹 大和書房

 

建築と利他/堀部安嗣 中島岳志 ミシマ社

 

先日、ナンギョウベースで出張本屋を行った際、「『運』と『縁』」について、店主やお客さんと話をした。その時の店主の言葉が、忘れられないでいる。

 

「縁っていうのは、それをつくることを目指すものではなく、人と出会った後になって気づくものなんじゃないか。『ああ、いい出会いだったな』というように」

 

この「後になって」という順序については、最近割と本を読んで出会うことの多い話題だった。なのですんなりと、納得できた。

 

内田樹は著書の中で頻繁に「事後的に」という言葉を使う。中でも私が特に好きで、共感し、生きる上での指標にしているテーマに「天職について」というものがある。仕事というのは「私にはこれができます」「これが得意なのでやらせてください」と自ら申し出るのではなく、相手から「ちょっとこれ手伝って」と求められるという順序をとるという話だ。誰かに「ちょっとこれ手伝って」と投げかけられたときに、「いいですよ」と応じる姿勢が大事なのである。ここから分かるのは、天職は「おれにとってこれが天職だ」と宣言するようなものではなく、他人から必要とされて初めて「あ、これが自分のやるべき仕事だったんだ」と気づくものだということだ。要請に応じているうちに「事後的に」天職だったと気づく、という順序なのだ。

 

結婚についても同じだと内田は言う。最適の相手と結婚するのではない。結婚した相手とその後長い時間をかけて暮らす中で「最高のパートナー」という関係をつくっていくという順序なのだ。「良きパートナーと結婚するのではなく、結婚した人を良きパートナーにしていく」とでも言おうか。いや、こう言うと相手をコントロールするようで傲慢かもしれない。「結婚した人が良きパートナーであるように、自分自身を変えていく」と言った方が正確だろうか。

 

一方、「利他」という言葉に関心があり、「利己的」の利己の反対である利他はどのような姿勢を指すのだろうかと考える中で、読んでいるのが、建築家の堀部安嗣と学者の中島岳志の対談集「建築と利他」だ。ここでの利他についての言葉も印象的である。堀部の考える「パッシブデザイン」に呼応する形で中島が発言している。少し長くなるが、重要な言葉だと思うので、引用する。

 

 私が利他の問題を考えている中で、非常に重要なポイントとして、利他というのは、人に何かを与えるときに起動するものだと思いがちなんですけれども、どうも違っていて、実は受け手になることによって起動するものであるというのが見えてきたんです。

 どういうことかというと、誰かのためと思ってやっていることでも、その人にとっては迷惑なことだったり、暴力的なことだったり、案外「私が利他をする」というのは難しい現象なんですよね。行ったことが利他であるかどうかというのは、あとからわかるもので、もう少し違う言い方をすると、利他は未来からやってくるものとして存在している。

 じゃあどういうときに利他が発生しているかというと、未来に投げかけた何かの行為が、未来の誰かに受けとめられたときですよね。「あぁ、あの人がこれをやってくれたおかげで、私はこんなにありがたい思いをしている」というふうに、受け手が誕生したときに初めて「利他」が起動し始める。

 

ここでは、相手のためになることをしよう、と意識して行ったことが利他になるのではなく、何らかの行為を受け止めたと実感したときにようやく利他が起動する(利他であると気づく)という順序であると説明している。どうしても、順序を間違えてしまいそうだ。

 

自分から何かを探そうとしたり、他人に施そうとしたりする積極的な姿勢をちょっと改めて(積極的な姿勢が求められる局面だってあるだろうけれど)、受け取ったものを大事にするという姿勢を、日常に取り入れてみてはどうだろうか。ものの見方がぱっと変わるかもしれない。