百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

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共感と同質性に基づく共同体の脆さについて

老いのレッスン/内田樹 大和書房

 

感情の海を泳ぎ、言葉と出会う/荒井裕樹 教育評論社

 

このところ、自分の頭から離れない言葉がある。それは「共感と同質性に基づく共同体は脆い」というものだ。内田樹「老いのレッスン」を読んで、その説明に共感した。自分も、「共感できるかどうか」「公私ともに親密でいられる間柄であるかどうか」を他者との親密度を測る尺度にしてはいけないと強く感じた。

 

共感と同質性に基づく共同体は「脆い」というのは、僕の経験的な確信ですけれども、それは共感と同質性の共同体において「俺たちって、めちゃ仲良しだよね~」ということの確認作業が、「屈辱感を与えても相手が怒らない」「暴力をふるっても抵抗しない」という倒錯したかたちをとることがあるからです。

 

この「確認作業」を示す実例として著者は、お昼ご飯を食べていたときに円卓で相席になったカップルの話を紹介している。「おめえ、よくそんな気持ちの悪いもん食えるな」「ずるずるきったねえ音出すんじゃねえよ」とか、それらの鋭い言葉を愛情表現のつもりで口にしている。これだけ尖った言葉を言っても相手から愛想をつかされないくらい、自分たちの信頼関係はゆるぎないものだ、と感じている。信頼関係を確認するために相手を叩いていると、お互いに気付かないうちに傷つき合ってしまう。「薄い氷の上に立って「これだけ踏んでもまだ割れない」と言って、がんがん踏み回っていると、そのうち割れて、水に溺れます」という著者の比喩は的確で、非常に鋭い。

 

一方、そうしたコミュニケーションと距離をとるよう努めてきた結果が、現在の文体に少なからず良い影響を与えているのかもしれない、と自らを分析しているのが、障害者文化論を研究する文筆家の荒井裕樹だ。「感情の海を泳ぎ、言葉と出会う」は、2024年の発行依頼、私にとっても特別な一冊となっている。

 

振り返るに、物心がついた頃から大人の入口にさしかかる頃まで、私が生きてきた世界にはある感覚が満ちていたように思う。ぞんざいな言動を許し合うことで互いの信頼感を確かめ合うような雰囲気というか、相手を下げたり馬鹿にしたりする言葉の毒気で場を盛り上げていくようなコミュニケーションというか、そういった類のものだ。

 

とても粗っぽい整理だとは思うけれど、人間関係における安心感には二系統あるらしい。相手をぞんざいに扱っても許されるという安心感と、相手からぞんざいに扱われないという安心感と。(中略)

私の場合、物心ついた頃から、かなり前者に偏った世界で生きてきたように思う。それはそれで楽しかった点もあり、すべてが黒く塗り潰されているわけでもないので、自分の生きてきた環境を無下に否定したくはない。ただ、こうしたぞんざいさを許し合う雰囲気が、容易に程度や限度を踏み越えてくることの怖さは実感したつもりだ。人と人とが何か特別な親愛の情で結びつくということは、傷つけることを許されたり、傷つけられることを許したりするものなのだーという具合に。

こうした感覚とは距離を取りたいし、自分の中から引き剥がしたい、というのが20代以降の私の人生の課題だったように思う。

 

相手をぞんざいに扱って、それでも反論されないことで、自分が相手と分かり合っていることを確かめる。そうした意識はきっと、例えば小学生の頃のクラスのことを振り返れば、多かれ少なかれあったのかもしれない。自分ばかりが被害者であったというつもりは私もなく、覚えていないだけで加害者側だったのかもしれない。ただ、「子どもの頃なんてそんなもんだよ」と一蹴しているだけではいけない。そうではなくて、そういう嫌な形でコミュニケーションをとっていた時期があったことを素直に反省し、大人になったいま、そういう雰囲気からは距離を取ろうとする姿勢が大切なのだろう。その姿勢がきっと、文章を書く人の筆ににじみ出る。

 

「屈辱感を与えても相手が怒らないことで仲良しであることを確認する」ことも、「相手をぞんざいに扱っても許されると安心する」ことも、同じ目的のふるまいである。こうしたふるまいからは意識的に身を離す。他者と平穏で長期的な関係を構築するために、大人の私が配慮すべきことは、さしあたってその1点のみだと思っている。