百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

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ヴィーガンと、狩猟

はじめてのヴィーガン日記 菜食と動物のはなし/著:ボソン 訳:金みんじょん 太田出版

 

わたし、解体はじめました 狩猟女子の暮らしづくり/畠山千春 木楽舎

 

まず、ヴィーガンのことを私は、根本的に勘違いしていた。動物性のもの、例えば肉や卵といったものを、すすんでは食べない、くらいの立場の人を言うのだと思っていた。食べられないというわけではないけれど、別においしいと思わないし、油もあるし、気が進まないからなるべく食べない、という程度の菜食主義者であると。大いなる誤解だった。

 

「はじめてのヴィーガン日記」を読んで、ヴィーガンの本質を知った。動物の命の搾取を前提とする食から距離を置く。だから、肉をなるべく食べないとか、そういった次元ではそもそもない。自分はこうした命の搾取に加担しない。だから、例え食べろと言われても、心が苦しくてどうしても「食べることができない」。そういうことだ。

 

そしてそれは食だけに限らない。例えば革製のバッグは牛などの動物の命とひきかえにつくられる。革靴も。財布も。だからそれらのものを、買わない。流通の増進に自身は関与しない。

 

こうした主張をする人を、ときに他人は「だったら何もできないじゃないか」とか言うかもしれない。本書にも登場するのだけれど、「お米も牛が田んぼを耕してつくったものだから、じゃあお米もヴィーガンではないね」「いま唇に塗っているもの、昆虫で作ったのは知ってますよね?」とからかう人もいるかもしれない。では、ひとたびヴィーガンを名乗ったら、すべての「動物の命の犠牲の上に成り立つモノ」を取り入れてはいけないのか。現代の文明で生きる以上、それは限界があるだろう。そもそも、本当に動物の命の搾取を嫌い、完全に断絶させようとするのであれば、自分が食べないだけでは足りず、全ての人間が肉を食べることをやめさせなければならない。しかしそれは現実的ではない。だからせめて、自分自身は摂取しないことで、より多くの命が奪われる事態を緩和させる。そうした考えのどこにからかわれる要素があるだろうか。

 

一方、食べ物の自給を本気で考えた結果として、狩猟を始めた女性がいる。イノシシを、クマを、狩り、食べる。イノシシやクマを広く動物と捉えれば、狩猟はヴィーガンと対極にある発想と言っても良いだろう。だからと言って、ヴィーガンが頭ごなしに狩猟する人をののしったりするだろうか。逆に、狩猟する人がヴィーガンを笑ったりするだろうか。そんなことはないはずだ。

 

仕留めたあと、心を苦しめながら、「ごめんなさい」「ありがとう」とつぶやく気持ちを、想像したことがあるだろうか。「一気に首を切れなかったこと、苦しませてしまったことを、今でもとても後悔しています」という気持ちを想像できるだろうか。この場合に「命の搾取」という言葉が適切かどうかは分からないけれど、自身のために動物の命を奪っているのは確実。その時の人の苦悩、逡巡みたいなものは、尊重されるべきものだと思う。

 

では、自分はどちらの立場をとるか。私は「AかBかの二択」で答えるような問いではないと思う。命の過剰な搾取には嫌悪感をおぼえるからヴィーガンの気持ちも分かるけれど、完全に肉を食べないというわけにはいかない。食べるけれど、「弱肉強食なのだから、食べられて当たり前だ」と言いたいわけでは決してない。自給自足に一定の関心はあるけれど、自分で動物を狩ることはなかなかできない。それでも、「動物愛護の観点から狩猟は野蛮だ」なんて批判する意図は一切ない。

 

人間界へのクマの侵入が増えているように見える昨今の報道と、それに対する意見の対立がなんだか頭に浮かぶ。「どっちでもない」というか、「どちらにも偏らない」というのか。一見優柔不断にも見える、こうした態度に耐えることが、実は成熟した大人として市民生活を営むうえで重要なのかもしれないなあ、と最近強く思う。