
君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた/若松英輔 河出書房新社

涙の箱/ハン・ガン 作 きむ ふな 訳 評論社
目に見えない涙が存在するのだということを、私は書物を通じて知った。若松英輔が「悲しみ」を描く、エッセイや詩からである。人は、他人からは見えない涙を流していることがある。気丈にふるまっているように見えて、実際は見えない涙で頬を濡らしていることがある。そのため、こと他人の悲しみに対しては、最上級の注意を払わなければいけない。「君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた」という、著者が特定の人に宛てた手紙そのものを読んで、そう思った。
もし、悲しみが深まったとき、涙が涸れるのだとしたら、涙を流さず悲しんでいる人がいることになる。だから何気ない顔をして、街を歩いている人々のなかにもきっと、深い悲しみをたずさえている人はいる。でも、世の中ではそうした人々の悲しみが真剣に考えられることはほとんどない。
悲しみはいつも、それについて知ろうとする者を拒む。でも、近くで悲しみを感じたいと願う、もう一つの心にはどこまでも開かれてゆく。
相手に寄り添おうとすればするほど、感じようとすればするほど、相手の悲しみの源は、逃げていくものなのかもしれない。それでも、矛盾するように聞こえるけれど、無視せず追いかけようとする姿勢が、悲しみを知るきっかけになるのではないかと思う。
「涙の箱」は、韓国の小説家による、涙をテーマにした童話のような話だ。突然大量の涙を流す「子ども」に会いに来たのは、涙を集めているという「おじさん」。おじさんに連れられた「子ども」は、涙を失った「お爺さん」に会う。短くも、さわやかな読後感が残る。
人によっては、目から流す涙より影が流す涙の方が多いんだ。周りから、または自分自身から『泣いちゃダメ!』という言葉をたくさん聞いて大人になった人たちだ。それに私たちは目頭が熱くなって、目の前がかすんできても、涙が流れない時がある。その時は、影の涙だけが流れているということなんだ。逆に、影はまったく泣かないのに、目から涙を流す人もいる。それは嘘の涙だ。
凍っていた「影の涙腺」が溶けて、影が涙を流す。人が見えない涙を流すというのは、その人の影が悲しみを背負い、代わりに泣いている、ということなのではないだろうか。