百日紅と太陽

  真夏の太陽に向かって枝を伸ばし、花を咲かせるサルスベリのように。自分の成長を実感できるような読書体験を届ける本屋です。

MENU

やさしい世界

アイネクライネナハトムジーク/伊坂幸太郎 幻冬舎

 

マイクロスパイ・アンサンブル/伊坂幸太郎 幻冬舎

 

もう何年も前の話。当時よく行っていた自宅近くのパスタ屋さんで、ピザを注文した。何も特別なことはない、普段通りの光景。特に嫌なことがあったわけでも、良いことがあったわけでもない。ただ、きれいな女性の店員さんにちょっとうっとりしていたというのが行きつけになった理由の一つと言われたら、確かにそうであり、否定はできない。まぁ男独り暮らしの頃の甘酸っぱい、後で振り返るとちょっとモヤっとする、思い出だ。

 

「お待たせしました」テーブルに置かれたピザの形がいつもと違うことには、すぐに気づいた。ハート形をしている。店員さんも笑っている。どういうことかと聞いたら、以前私がその店員さんの対応に感動したことがあって、そのお礼にとテーブルに残した置き手紙(といってもちょっと書いたふせん程度のものだったと思う)を読んで、嬉しかったのでそのお礼に、とのことだった。彼女のどんな対応に感動して置き手紙を書いたのか、いまはもう覚えていない。ただ、店の(一応チェーン店だった)マニュアルには絶対にないであろう形に生地をこねて、焼いて、丁寧にピザをつくってくれた、その想いがなんだか嬉しくて、痺れたのは鮮明に覚えている。それからしばらくしてそのお店は撤退し、今はないけれど、たまにそのお店の前を通ると、その時の優しさに満ちた痺れがグッと胸を覆う。

 

伊坂幸太郎の「アイネクライネナハトムジーク」と「マイクロスパイ・アンサンブル」は、どちらもそんな優しさに満ちた物語。前者はミュージシャンの斉藤和義からの「出会いをテーマにした曲の歌詞を」という依頼から生まれた短編小説集で、奇妙な出会いが心をくすぐる。後者は猪苗代湖の音楽フェスのために作られた短編を単行本化したもので、元いじめられっ子のスパイとしがない会社員の物語が交互に展開し、収束するという構成。こちらも、小さな奇跡を引き起こす「優しさ」に、心臓が潤う感覚を味わえる。

 

ストーリーを冷静に捉えたら、現実離れしている、と思うかもしれないけれど、そんなおとぎ話のような展開に感動し、明日からの自分の言動を見直すきっかけになるのであれば、それが世界を変えるかもしれない。この「未来を変えるかもしれない」可能性に満ちているというのが、本のすごさの一つだろう。