百日紅と太陽

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日本の反知性主義

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日本の反知性主義/内田樹 編 晶文社

 

内田樹が、どういうものを「知性的」というのか(「知性的」というと考えているのか)という言葉がすっと胸に入り、本当にその通りだな、と思った。そして、自分がそうでありたい、と思い続けてきたのは、このような態度でもって「周囲と連携して」パフォーマンスを高めていくことを目指していたからなのだと思った。

 

知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。

 

反知性主義」はこの対局をイメージすればよいだろう。これについても彼は的確な指摘をしている。長いけれど、私にとってはどれも省けないので引用する。

 

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのは反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱していくからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。

 

組織で、会社で、学校で、趣味のサークルで・・・。「他者との関係において」知的に向上する役を自分が担えるかが重要なのだ。どんなに有益な情報を提供できても、周囲がそれを信じなかったり、信じられるにしても「お前には論破されている気がして聞く気になれない。どうせ反論を受け付けないだろ」と耳をふさがれたら、場の知性は向上しない。

 

他、「反知性主義」をテーマにした9人の小論をまとめたのが本書だ。「自分は知性的だ」だなんて驕らずに、反知性について考えよう。